「はぁッ…はぁッ…」
 
 殺風景な石造りの空間に、悲愴さを背負った、今にも途切れそうな女の呼吸が響いている。
 
 もっと頑張らなければ…と。
 女は己を叱咤する。
 
 
【僕は、僕が考え得る限りの知略で貴女を護ろう】
 
 
 黒の教団。その数在る修練場の1室。女の居るこの場所には、石造り独特のひんやりとした空気と一人掛けの椅子、それと小さなテーブルに置かれた一輪のバラが在るだけだった。
 だが、その部屋に存在する自然物に不可思議な現象が起こっている。
 優美なラインを描くガラスの一輪挿しに生けられたバラ。本来ならば、ただ美しいだけの自然物が、己のもっとも美しく咲き誇る時と、色褪せ力無くうなだれる時とを彷徨っている。栄光と衰退を繰り返す、この世の秩序を逸脱した現象は、簡素な椅子に腰掛けるひとりの女の仕業によるものとは誰が思うだろう。
 女は対人間兵器AKUMAを狩る者。神の使徒。エクソシストたる資格を表す、銀のローズクロスを胸に抱く黒のコートを纏い、選ばれし適合者しか扱えぬ奇跡の物質--イノセンス--を行使する。
 エクソシストは強大な力を持つイノセンスを、武器という姿に拘束し力を限定する事で扱いやすくしている。ひとつでも多くのAKUMAを葬る為に。
 だが、この女のイノセンスは少々変わっていた。
 世界に散らばる109個のイノセンスのひとつ。アンティークの置き時計より作られた『刻盤<タイムレコード>』という名の対アクマ武器。それは、直接的にアクマを攻撃することは現段階では出来ないが、世の中の「時間」と言う名の秩序をその手に操る。
 女は、美しさの欠片すら残らない枯れたバラを、その徐々に色褪せていった時間を吸い出し、イノセンスの中で留める。吸い出される衰退の時間。結果、バラはその生涯で最も美しい姿を取り戻す。
 ありえない奇跡。
 そのありえない奇跡は人間たる女には負担が大きく、呻きがカサついた唇から零れる度に、バラの本来あるべき、全うした時間が帰ろうと溢れ出す。それをまた女が掴み取る。
 肉体の限界は誰が見ても分かる程だった。
 血の通わない唇を、それでも血が出る程に噛み、必死で時間を留めようと手を伸ばす。
 
「ん…ッ、ま…だよ。こんなん…じゃ、役に…」
 
 女の脳裏に、初めてイノセンスを行使した時、生涯で初めて「ありがとう」と言ってくれた白髪の少年と可愛らしい少女の姿が鮮明に描き出される。自分を護り、アクマと戦う彼らの深い、深い傷を一度は吸い出す事に成功した女だったが結局はもとに戻す事になってしまう。
 自分の傷は自分で負う。生きていれば癒えるからと、笑顔で傷の時間を受け入れる彼らに対していまだに申し訳なく想う。
 
「ここ…で、へばって…ちゃ…、意味…ないじゃない」
 
 精神を、肉体を更に酷使しようと己を叱咤すると、
 
「はい、ストーップ。休憩ーッ!!」
 
何時の間にか部屋へと侵入した、場違いに明るい声に止められる。
 
「ひあッ!?コ…コムイ室長ッ!!」
 後ろを振り返ると、白の団服に同じく白のベレー帽。頭脳派の最高権力者、コムイ・リー室長がにこやかに笑っている。
 突然の出来事に女は吃驚してイノセンスの行使を中断してしまう。
 留めていた時間が持ち主へと帰り、色褪せたバラの花弁がボロボロと崩れ落ちていく。
 
「はは、室長はいらないよ。ミス・ミランダ」
「はッ…、はい。コ…コムイ…さん」
「OK。訓練もいいけどコーヒータイムにしようじゃないか」
 切れ長の瞳に整った顔立ちの美丈夫は、コーヒーカップを差し出す。
「大丈夫?持てるかな?」
「あ…ッ、は…い。だッ…だいじょう…ぶ、で…す」
「無理しない」
 ミランダの呼吸が整うまでゆったりと待つコムイ。
 
 
「ありがとうございます」
 体を落ち着かせたミランダは、おずおずとコーヒーを受け取る。
「あ…の、コムイ…さん」
「ん?なんだい」
「あの、何時頃からいらしたんですか…」
 消え入りそうなか細い声で、頬を朱に染めながら勇気を振り絞り問う。
 必死でイノセンスを行使する姿は、出来る事ならあまり人には見せたく無いと思うのは女性として当然だった。
「ん〜、今来たばかりだよ〜」
 傍らに佇みのほほんと答えるコムイに安堵したミランダは、コーヒーカップへと唇をつける。ひやりとした感触が心地よく、その先の液体までもが冷たく、乾いた喉に吸い寄せられるように、一気に飲み干してしまう。
 ほぅ……。
 自然と蠱魅的な溜め息が零れる。
「ごめんね、冷えちゃっていてあんまり美味しくなかっただろう?」
「え?あッ、そんなことないです。すっごく飲みやすくて、美味しかったです」
「よほど体が疲れていたんだね。だめだよ、程々にしないとね」
「はい…、でも…」
 つい、口籠ってしまう。
 先だって入団したばかりのミランダであったが、アクマ…ひいてはノア、千年伯爵との激戦化の一途を辿る戦況が分からない訳ではなかった。皆の、エクソシストへ対する戦力への渇望は恐ろしい程で、それが更にミランダを焦らせる。
「私、もっと頑張らないと…。役立たずで……うッ…」
 黒い睫毛に縁取られた瞳から、大粒の涙が止めどなく零れる。
「うッ…ひっく……」
 
「ミス・ミランダ」
 
 傍らから真正面へと移動し、まるで跪くようにミランダに相対する。
 先程までの穏やかな空気は消え、この男本来の表情が現れる。
 
「ミス・ミランダ」
 
 手を取り、もう一度恐ろしく優しい声音で名前を囁く。泣いている顔などミランダは人に見せたく無いはずなのに、不思議とコムイの方を向いてしまう。
 吸い寄せられるままに視線を交える二人。
 刹那とも、永遠とも感じられる沈黙を破るのはコムイ。
 
「悲観しないで欲しい。
 貴女は自分の能力が役不足だと思っているようだけど、それは違う。
 たしかに、貴女の能力はアクマを直接攻撃するものでは無いけれど、直接戦闘するエクソシスト達のサポートに、貴女が居るのと居ないのとでは話は全然違う。彼らはね、戦えなくなったらそこですべてが終わってしまう。
 けれど、仮染めとはいえ貴女がいればまた彼らは戦える。
 戦いは辛い。
 だけど、戦う事ができれば活路が開ける。どんなに深い傷を負ったって、生きてさえいれば、致命傷さえ避けられれば絶対に、僕らが治してみせる。
 
 ありがとう。
 
 貴女がエクソシストになった事を神に感謝します」
 
 
 まるで神への祈りを捧げるように一言、一言と丁寧に言葉を紡ぐ。
 
「ありがとう」
 
「コムイ…さん」
 
 あまりにも弱々しい笑みが痛々しい。
 予想外の真摯な感謝と不意打ちに、ミランダはどう対処すればよいのかという思考すら奪われる。
 いったいどれほどの時間見つめあっていたのか、当人達には分からない。
 だが、やはり沈黙を破るのは男の方だった。
 
 
「さ、落ち着いたらご飯食べてエネルギーを補給だ〜」
 
「コ…コムイさん!?」
 余りのギャップにミランダはコケそうになる。
 先程までのふざけた様子など1片も見当たらない表情はどこへ消えてしまったのだろう。ふだんの茶目っ気たっぷりのコムイが復活していた。
 
「そ・う・だ〜♪料理長のジェリーがね、本場ドイツの味ヴァイスグルストを作ったから食べに来てってさ。えーっと、たしかアレって朝食に食べるソーセージだったかな?」
「はい、子牛のお肉で作るふわふわのソーセージで美味しいんですよ。でも、私アレを食べるのが下手なんです。縦半分に切って、上手に剥がさないといけないんですけどいつも失敗しちゃって」
「まっかせて〜、僕そーいうの大得意〜♪」
 しっかりポーズまでとって主張するコムイの姿に、自然とミランダは微笑んでいた。
「ね、軽いものなら食べられるだろ?
 美味しいソーセージに生ビール!ッてー訳にはいかないけれど、今度は温かいブルーマウンテンを飲んで、また頑張ろう」
 
 
(ゆっくりお休みって言えなくてごめんね)
 心の中で謝罪する。
 
 
「あ、そうそう。ミス・ミランダ。
 今度イノセンスを行使する時は、作業行程を口に、言葉にしてごらん」
 
「……え?」
 
「イノセンスを発動させたらね…、
 『対象空間を包囲』…、『確定』…」
 
 にっこりとコムイは微笑む。
 
「『これより私の発動停止まで秩序を亡失し…時間回復(リカバリー)します』とかね。
 一言、一言。あえて口に出す事で自分の中で、強大な力を使う事への覚悟、肉体への身構えと適度な緊張状態を作れるよ。あとでやってみてごらん」
 
「は…、はいッ」
 
「さ、立って」
 
 優しく手を取り立ち上がらせる。
「え…、きゃぁッ!?」
 黒く長いコートの裾を踏み思わずよろめくミランダを、まるでそうなることを知っているかのように受け止める。
「ご…ごめんなさい!ごめんなさい!!」
「うん、この団服も新しく新調しよう。
 新しく丈夫な素材の量産に成功したんだ。今までよりも軽いけどずっと丈夫なんだよ。それで貴女には全身を覆うタイプの服を作ろう。少しくらい転んでも平気なようにね。そして腕には『刻盤』が装備できるように改良を加えよう。それから、これから修練するならヘブくんとこがいいよ」
「え…と、ヘブラスカ…さん?」
「そ、ヘブくん。恐い?」
「あッ、えと、最初は吃驚したけど、その…恐くなんてないです」
「じゃあ、今度から修練はひとりじゃなくヘブくんの所でね。シンクロ値を上げる修練ならあの場所はうってつけだよ。集中できるし、なにせヘブくんがすぐに教えてくれるからね。数値が落ちて発動が困難になって来た時が貴女の休む時。いいね?」
 
「はッ、はいッ!」
 
 
 
(僕は、僕が考え得る限りの知略で貴女を護ろう)
 
 
 
 
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2007.02.17

はい、コムイさんはなんでもお見通しです。

ちなみにコーヒーが冷えきっていたのはミランダさんを最初っからってーか
かなり前から見ていた所為。(分かりにくかったらどうしよう…)
コムイさんの愛は恐ろしく計算されまくった愛情だといいな〜と思っていたら
こんなに捏造できました。本当は最後もう一個入れたいシーンがあったのです
が、エエ話で終わらせておこうかな〜と。
 
うーん、神ミラを絡めたオマケ話しアップしようかな。
後半、ものすっごく急いだ感バリバリで描写をすっとばしまくり(切腹)

 

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