[その指にはきっとプラチナが似合うから]
 
 
 
 
 
 柔らかな朝の陽射しは、レースのカーテンを通すことで柔らかさが更に増す。優しさすら感じさせる光に照らされて、麗人は眠り続ける。
 
「綺麗だな……」
 
 そこには、ただ、ただ、透明な綺麗だけがある。普段の高潔なまでの美しさではなく、苦も優しさすらも無かったが、周防克哉という人間の何も着色されていない透明な綺麗。
 しばし見蕩れる達哉だったが、今日のこの陽射しのように柔らかに微笑む顔が見たくなり、ようやく起こすことを決心する。
 
「……ん、………んんっ」
 
 麗人の眉根が苦しさに歪む。
 寝返りをうとうとするが、その試みは上手く行くはずがなかった。
 
「うう…ん……」
 
 息苦しさに負け、克哉が長い睫毛に縁取られた瞼をゆっくりと開けると。
 
「おはよ」
 
「た………達哉〜〜〜」
 
 この苦しさの理由を目の当たりにし、力が抜ける克哉。
 仰向けに眠る己の上に、自分よりも若干ではあるが重い人間が覆いかぶさるように乗っていたのだ。それは苦しいはずだった。
 
「もう少し優しく起こして欲しかった……」
「ん?じゃあ、キスでもしながら起こそうか?」
 
「馬鹿者」
 
 優雅に微笑みながらあっさりかわされる。
 それを多少残念に思いながらも、どこかで安堵している自分を感じる達哉。
「あれ?そういえば……今、何時だ?」
 ふと、この状況に違和感を感じとった克哉の自然な疑問。
 普段ならば克哉が達哉を起こしているのだから。
「9時だよ」
 クスクスと笑いながら答える達哉に、どこかあどけなさを感じる。
「ゆうべのアロマオイル。あのラベンダーが効いたみたいだな」
「え…、ああ。まさかこんなにぐっすり眠ってしまうなんて……。あっ、そういえば学校。僕は休みだけど達哉、学校はどうしたんだ?」
「自主的休学」
「え?じゃあ、こちら側の達哉はどうしているんだ?」
「アイツ?アイツは俺と違って結構学校サボってたからなぁ。無理矢理行かせたよ」
 
 今まで家族と、克哉とも反目しグレていたこちら側の達哉。そんな達哉だが、こちら側での事件が終わってからというもの。向こう側の達哉に、肉体の主導権を握られていた時の記憶などないはずだったが、それでも影響はあったのだろう。克哉と同じ警察官を目指すと、将来の目標を決めた達哉は、真面目に、当たり前のように学校に通いはじめている。
 そんなこちら側の達哉を、学校に行かせるなど雑作もないことだった。
 悪びれもせず即答する弟に、厳格な兄は怒るかと思いきや。
 
「んっ」
 
 利き腕をなんとか自由にすると、くしゃくしゃっと目の前にいる達哉の髪を乱暴に撫でる。
「ククッ…。まったく、仕方のない弟だな」
 年長者の余裕すら感じさせる程、ゆったりとした苦笑。
「怒らないの?」
 自分でくしゃくしゃにした髪を、今度は優しく直す。
「たまには、いいんじゃないか。あくまで、たまにはだがな」
 向こう側にいた頃とは違う、直接的な優しさ。そのなんと心地良いことか。
「無理して潰れてしまうより、適当に息抜きした方がいい」
 
 向こう側からこちら側へ。
 
 向こう側の記憶を持ったまま、向こう側のままである達哉が、こちら側という別世界で生活する微妙な差違。小さなストレスの詰み重ねというものを心配する克哉の優しさ。
 きっと向こう側にいた頃の克哉であれば、頭ごなしに怒鳴り学校へ行かせようとしただろう。だが、それも克哉の優しさだった。厳しく接し、悔しさをバネに成長するように。どんな逆境でも立ち向かえるように。あえて厳しく接した克哉の優しさ。
 質の違う優しさ。
 向こう側にいた頃の克哉の厳しさは、今の達哉の基盤を作った。けれど、向こう側の世界から独りで罪を背負い込んで来た達哉は、今の直接的な優しさに驚くほど癒されている。
 達哉のポーカーフェイスも、この優しさの前ではふと弛んでしまう。
 目も眩むほどの幸福を噛み締めようとした達哉だったが、
 
 ペチッ
 
「んっ!?」
 
 にっこり微笑む克哉に額を叩かれる。
 
「とりあえず、重いから退きなさい」
「はーーーい」
 
 仕方なくその場を退く達哉。
 何の色気もない、身も蓋もない台詞だったが、代わりに暖かさがあった。
 
 ゆっくりと起き上がる克哉に、部屋から出ていこうとする達哉が振り向きざまに声をかけた。
「兄貴。朝ご飯の前に、お風呂用意してあるから入れよ」
「え、朝から……」
「いいだろ。疲れきってる兄をとことん癒してやろうという弟の気持ち。ありがたーく、受け取れよな」
 
「ありがとう」
 
 
 素直に達哉の好意に甘んじる克哉。
 何の変哲もない自宅の風呂場も、日の光が入り込むと夜とは雰囲気がガラリと変わる。午前中からの入浴。ゆったりと身体を湯槽に沈ませると、なんともいえない、なんだかものすごく贅沢をしている気分になるから不思議だ。
 思いの他、長湯してしまった克哉を達哉は待っていた。
 リビングへ通され、席を指定される。
 言われるがままにソファに腰掛けると、さっとナプキンを膝に手際良くかけるとキッチンへと姿を消す達哉。
 次に姿を現した時には、その両手に銀のお盆が握られている。克哉がケーキを載せるために用意してあったその場所に、焼き立てのトーストとミルクティーが載せられていた。
「はい、朝食。時間も遅いから軽く…ね」
 克哉の真横。テーブルではなく左側のソファの上に安置される。
 あまりの準備の良さに、克哉は一瞬面食らう。
 そんな克哉に構わず、トーストにバターとイチゴジャムを塗る。
「はい、ちょっと食べづらいと思うけど左手で食べていて」
「ん?どうして左手でなんだ」
「まずは右手から念入りにやりたいから」
「え?」
「さぁさぁ、手を出して」
「え?あ…ああ……」
 ソファの下に座り込み、克哉の右手を握る達哉の傍らには、見なれない道具の数々があった。
「達哉…、それ…は?」
「ああ、これ?爪のお手入れセット」
「え、え……」
「だから、兄貴の爪を綺麗にする為に揃えたんだよ」
「いや、その…だから、どうして……」
「どうしてって。それは兄貴が銃を使い過ぎた所為で爪がボロボロだからだよ。ったく、小奇麗な身なりしてんのにさ、爪だけボロボロなんておかしいだろ」
 向こう側の達哉特有のポーカーフェイスで諭される。
 僕は男なんだからいいだろう?なんていう言い訳があっさりと封じ込められてしまう。
 それでも何かを言おうとした克哉だったが、達哉はさっさと作業に没頭してしまい、声が掛けられなくなる。
 仕方なく紅茶を一口、口に含んだ。
 
 
「なあ…、達哉………」
 
 一本一本、丁寧に。紙製のエメリーボードを爪に対して45度というきっちりとした正確な角度で当て、先端、サイド、コーナーと、順序良く一定方向に削っていく。
 
「なぁ…、面倒じゃないかい?」
 
 あまりにも丁寧な仕事ぶりに、克哉は声をかけるが、仕事に没頭する達哉に黙殺される。
 
 自分と似たような構造の顔立ち。けれどまったく違うその表情に魅入ってしまう。自分を押し殺し、クールな雰囲気を纏おうと仮面をかぶる達哉とは違った達哉。長い睫毛に縁取られた意志の強い瞳。眩しいばかりの輝きはそのままに、そこには孤独も、喜びすらなかったが、純粋に誇り高い何の思惑にも作用されない強さを見ることが出来た。
 作業に集中する達哉。例えば、バイクをいじっている時の達哉の表情を見ることが、何時の間にか好きになっていた克哉。
 だが、このあどけない子供っぽさは姿を隠した純粋な強さを見る度に、危機感に襲われる自分がいることを自覚しはじめていた。この7つも年の離れた弟には、務めて余裕のある対応を心掛けている。けれど、ふと気を抜くとすぐに弟のペースに陥ってしまう。
 
「もっと、兄貴ぶっていたいのにな………」
 
 そっと、呟くと達哉が用意してくれたトーストをかじりはじめる。
 
 
「さぁ、今度は左ね」
 有無を言わせないその響きを心地良いと思ってしまう克哉は、素直に従う。
 またしても真剣そのものの表情で、作業に没頭する達哉には声が掛けづらい。
 
「達哉……」
 
 綺麗なたまご形に揃えられた爪。
 そっと、達哉の頭に手を乗せ、ゆっくりゆっくり撫で続ける。
 
 ようやく左手の爪を削り終わった達哉。
 どこか気恥ずかしい感覚から解放されると安堵した克哉の心情を察したかのように、意地悪く微笑みかける達哉。
「まだ終わりじゃないよ」
「え、あ…。だってもうこんなに、綺麗に整っているじゃないか」
「あのね、兄貴。爪を削るだけならこんなに道具はいらないだろう?」
「そ…それはそうだが……。これ以上どうするんだ?」
「次は甘皮」
「えっと、それはこの爪の付け根の……って、うわっ!?」
 強引に腕を固定されてしまう。
「見てれば分かるから」
 そういうや否や、キューティクルリムーバーを甘皮に馴染ませ、用意したぬるま湯に浸される。2〜3分ほどして、程よくふやけたところで、湿らせた手製のコットンスティックで脇の部分から根元に向かって、円を描くように甘皮を押し上げていく。
 
「う…わ。なんというかこれってかなり本格的なんじゃないか?一体、何時の間にこんな事を覚えたんだ??」
 克哉の素朴な疑問に、手を動かしたまま、しれっと答える。
「ああ、エリーさん。快く教えてくれたよ」
「え、ああ……そうなのか……」
「兄貴の爪を綺麗にしたかったから。中途半端な事したくなかったし、やるなら徹底的に兄貴が嫌がるくらい綺麗に仕上げようと思ったから」
 軽い冗談を交え、本音を上手に隠す達哉。
「!?お前……」
 照れ隠しに怒鳴ろうとする克哉だったが、見事にまたしても先手を打たれてしまう。
「何?俺の匠な心意気を邪魔しようっての?」
「…………………っ!?」
 妙に真面目くさった口調で言われて反論出来なくなってしまう。
 一旦、取り戻しかけた精神的余裕が無くなって来ている証拠でもあった。
 黙々と作業を続ける達哉に、されるがままの克哉。
 湿らせたガーゼで、円を描くようにそっと優しく薄皮まで取り除かれる。
 気恥ずかしくて仕方がない克哉だが、もう好きにさせてやることにした。
 
 達哉の手で温められたハンドクリームが、克哉の手にすり込まれる。
「ん……」
 指を一本一本伸ばされ、丹念にマッサージされてゆく。
 ふわりとクリームからたゆたう桃の香り。
 あまりの心地良さについ、うとうとしてしまう。
 夢見心地。夢と現(うつつ)の境を彷徨いながら、克哉は声を発する。
「………優しい…な」
「そう?おかしな事言うね。優しいのは兄貴だろう」
 
 相手の意識が朦朧としているのをいいことに、つい本音を口に出してしまう達哉。
 
「そう。向こう側でもこちら側でも、兄貴は変わらず優しいよ。でもさ、向こう側にいた時とこちら側にいるアンタは、どうしてこんなにも違うんだろうな………。くくっ……、こちらは理想の世界。俺が望んだからなんだよな」
 
 自嘲気味に語り出す。普段、思っていても決して口にはしなかった本音。
 達哉は恐いのだ。幸せ過ぎて、優しすぎる克哉に溺れてしまいそうで。溺れてしまうのはいい、克哉を壊さない程度に愛する事ができれば。潔癖すぎる兄という存在に、己の感情をぶつけたらどうなってしまうだろうか。
 自分に優しくして欲しい、優しい言葉で包み込んで欲しい。
 そう願う一方、押さえの効かなくなりそうな自分がいて恐ろしい。
 そして己の欲望のために、変質させてしまった克哉という存在に負い目を感じている。
 だが、そんな達哉に掛けられた言葉は…。
 
「何を…言っているんだ?僕は変わったとお前は言うけれど、そうだな…僕はもう一度人生をやりなおせるならばきっと……、厳しくしたって決して言う事をきかないどうしようもなく可愛い弟ならば、今度は思いきり甘やかしてやりたいと思う……きっと。僕より幼い癖に、色々独りで背負い込む弟…の、負担を少しでも…ほんの少しでいい…から……背負ってあげたいと………。ふふ…、僕がいままでずっと…、色々なものを背負い込んで来たのは、7つも離れた弟に対抗…していたのかも………」
 
 語尾が掠れ、とうとう意識を手放し、発音出来なくなる克哉。
 
 語られる魂の記憶。
 
 きっと、目覚めれば覚えていないだろう。
 決して表には出てこないはずの記憶が、無意識の狭間を彷徨う合間、ほんの一時解放された克哉の思惑。
 
「兄………。克‥哉………」
 
 極上の優しさで紡がれた言葉が、自分を咎人だと、決して許そうとしない達哉の心にじっくりと浸透する。
 どうしようもなく優しくて、どうしようもなく愛しい。
 
「まったく……、アンタって人は………。あの台詞…、ある意味最高の口説き文句じゃねぇの?俺のために生き方を変えたなんてさ……。覚悟しろよ」
 
 不敵に微笑むと、綺麗に整えたしなやかな指先に唇を落とす。
 寝ている合間に徹底的に綺麗にしようと企む達哉。
 表面を削り、ポリッシュで磨き、薄い色のマニキュアにトップコートまで施せば、まるで桜貝のように綺麗な爪になる事であろう。
 
 じっと、そのしなやかな指先を見つめると、何か飾るものが欲しくなる。
 
「やっぱり……、アレだよな」
 
 爪を仕上げたら克哉を起こし、慌てふためく克哉を無理矢理黙らせて、バイクの後部座席に乗せたらあの店へ。
 
 
 きっと、この指先にはプラチナが似合うはずだから。
 
 
 
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2006.10.23
いやーーSSSじゃねぇえ!5000字いってるよ。
しかーも、最初に考えてたオチ…
「起きた克哉が爪のナイスな仕上がりにビックリしてるところを、真面目くさった顔で言い負かして『さぁ、出かけよう』って…買い物に誘う」
笑いが〜笑いが入れられなかった〜
 
しかし最近文章なげぇや…。
なんで『達哉に爪の手入れをされる克哉』という一言のネタがここまで長く………

 

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