- [暗黙の了解を打ち砕け]
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- 「克哉……」
- 目の前で眠るその人の名前。
- そっと口にするだけで、体に甘い痺れをもたらす。
- 「克哉……」
- たまらずもう一度囁く。
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- 他者に厳しく映る、高潔なる決意を秘めた両の瞳。
- 今はただかたく閉ざされ、代わりに美しい弓なりのラインを縁取る長い睫毛が強調され、影を落としていた。
- なんて綺麗なのだろう。
- ただ綺麗なだけのアンタは無防備すぎる。
- もっともっと、咎人である俺には厳しすぎる高慢さで、咎人である俺には幸福すぎるほどすべてを包み込む優しさで、もっと俺を拒絶してくれなくては困る。俺を縛る倫理の鎖。けれどそんなものは、アンタが許してくれそうな素振りを見せればすぐにでも引き千切り、アンタに襲い掛かるだろう。
- アンタ、どれだけ俺に我慢させているか知ってる?
- 知るはずなどない俺の感情を問いかけ苦笑する。
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- ただ我慢をしているのは、もうひとりの俺も同じだった。
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- 今までずっと生を共にしてきた『向こう側』の克哉。
- 光り輝く頑なまでの正義を内に秘め、その高慢なまでの高潔さは俺には眩しすぎて触れることが出来なかった。
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- 今からずっと生を共にする『こちら側』の克哉。
- 俺という咎人とは違い、こちら側とシンクロした愛しい兄。
- アンタの内面はまったく変わっちゃいない。
- そのままなのに、何故。
- そんなにも俺を優しく甘やかす?
- そんなにも俺に優しい視線を向ける?
- 堪らない。
- 厳しく接してくれれば我慢できたろう。
- けれど、どうだ。
- 今のアンタは優しすぎる。
- こちら側で孤軍奮闘を重ねる俺を、冷たく拒絶し続けた俺を、逢う度に
- 惜し気も無く愛情を注ぎ優しさで包み込もうとしてくれる。
- 堪らない。
- 俺の荒廃しきった心の飢えを癒してくれるのはアンタだけ。
- けれど、飢え過ぎた俺の心は少しばかりの愛情では満たされない。
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- 俺の事を心配する言葉を紡ぐ、花弁のような唇を塞ぎたい。
- 白く綺麗な歯列を舌で割り、戸惑うアンタの舌を絡め、しゃぶりたい。
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- 何も知らず綺麗なアンタは眠る。
- まさか弟である俺に、こんな感情があるなんて夢にも思わないだろう。
- 潔癖なアンタがこんな感情を知ってしまったら、どんな表情をするだろう。
- 恐くて想像する事が出来ない。
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- 俺を拒絶しないで。
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- 「ッたく………」
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- こちら側の俺は大変だったろう。
- まったく別々の人格を宿す、こちら側の俺。
- だが、克哉を想う気持ちは痛いほど同じだった。
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- 「そりゃ、グレもするよな…俺」
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- 我慢しているのに相手は容赦なく、近づいてくる。
- それはとてつもない苦痛だったろう。
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- 互いに抱えるどうしようもない感情。
- 克哉を傷つけるのが嫌で、俺たちはそんな素振りをすることは
- 許されない。話し合った訳ではない。それは何時の間にか暗黙の了解
- となって俺たちを縛る。
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- 「俺たちの苦労、アンタは受け入れてくれる?」
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- 甘えるように、克哉の手を自分の頬に寄せた。
- 穏やかな温もりを、俺の冷たく冷えきった肌は貪欲に奪う。
- 一旦頬から手を放すと、ふと綺麗だったはずの爪が荒れている事に気付く。
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- 今までの、連日に及ぶ戦闘で銃を使いすぎたせいだ。
- 几帳面なアンタの爪は、いつも緩やかなカーブを描いていた。
- 今度は俺が磨いてあげよう。
- 専用のヤスリで一本一本丁寧に、ゆっくり時間をかけて。
- きっとアンタは嫌がるだろうけど、トップコートも塗ろう。
- きっと、俺が真面目くさった顔でこれは爪を保護するためだと
- 言えば、しぶしぶながらも塗らせてくれるだろう。
- そうして仕上げたアンタの爪は、桜貝のように綺麗だろう。
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- その手で俺に触れて、触れさせて。
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- 堪らない。
- 克哉の女性とは違った綺麗な指を、愛おしくて口に含んでしまう。
- 口に含む…などという表現では生易しい。
- 舌を絡め、根元までしゃぶり舐め尽くす。
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- 疲労で、深い眠りの淵を彷徨う克哉は身じろぎすらしない。
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- ああ、そのままもう少し何も知らずに眠っていて。
- もっとアンタを味あわせて。
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- きっと、禁忌を犯すのは俺が先だろう。
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- 2006.09.17
- 銃を使う人は爪が荒れるんですって……(トリビア)
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