[ザッハトルテと世にも稀なる珈琲と]
 
 
 
 琥珀色の明かりが室内を優しく照らす。
 上品さすら感じさせる、古風な洋館を思わせるラウンジにたゆたう珈琲の香り。鼻孔をくすぐる心地良い刺激に、自然と味への期待も高まる。
 
「うーん、良い匂い〜」
「順平くんの煎れてくれる珈琲って美味しいんですよね」
「ブリリアント。あの腕前は賞賛に値する」
 
 奥のキッチンで珈琲を用意する順平。以前、喫茶店のバイトでみっちり仕込まれたというその腕前は、かなりのものだった。
 
 ゆったりとした3人掛けのソファに、向かい合わせて座る男女。
 片方に美鶴、風花、ゆかりと並び、もう片方は夜斗と明彦が、まん中を開けて両端に座っている。
 
「まったく…、僕は紅茶の方が良かったというのに…」
「いいじゃないか、順平が煎れる珈琲は旨いんだ。それに、無いものは仕方が無いだろう」
 ぶつぶつと不満を述べながら、器用にケーキを切り分ける夜斗をなだめる明彦。
「あれ?夜斗って、紅茶党だったっけ。シャガールでよく珈琲飲んでるから珈琲党だと思ってた」
「ああ、あれはいいんだ。一種のドーピングの様なものだから」
「え?ドーピング??」
 不思議な表現に、ゆかりは一瞬疑問が浮かんだが、カフェインの事を言っているのだろうと自己完結した。
「でも、おかしいですよね。昨日まではたくさんあったんですよ。ダージリンにアッサムにセイロン。ウバまで全部無いなんて、一体どうしちゃったんでしょう?」
「うむ。昨日の朝、私が飲んだのはダージリンだったが、葉はまだいっぱい入っていたぞ」
「ふ…む。そういえば今朝、順平から紅茶の香りが微かに…」
「あっ、そういえば……。夜斗っ、アンタからも妙に紅茶の匂いがしたわ」
 
 4人の視線が夜斗に集中する。
 
「……………おお!」
 数瞬の沈黙後、何かを思い出したのかポンと叩く夜斗。
「そういえば、ゆうべ伊織と紅茶風呂に入ったんだった(in大浴場)」
 
「「「お前かーーーーーーーーっ!!!!!!!」」」
 
 絶妙なツッコミが見事なハーモニーを奏でる。
「ア…アンタねぇ……」
「お前なぁ…(しかも順平と)」
「なんと…紅茶風呂とは…(順平と…)」
 自分で飲みたいと、飲めない原因を作った張本人が言っていたとは、その見事なまでの自分勝手さに呆れてしまう。
「紅茶のお風呂…(紅色の液体に浸る2人の美少年)、いいなぁ〜。でも、どうして紅茶風呂なんて思いついたんですか?」
 うっとりと想像する風花に、本音を隠した身も蓋も無い返事を平然と夜斗は返す。
「ああ、昨日旅番組で緑茶風呂やっていてな。だが、大浴場でやるには緑茶が足りなかったから紅茶にしたんだ。紅茶ならいっぱいあったしな」
「でも紅茶風呂ってリラクゼーション効果あるって何処かで聞いたことがあるんですけど、どうでした?」
「リラクゼーションか…。(というより興奮作用か)ああ、バッチリあったぞ」
 眩しいほど満足しきった笑顔を浮かべながら、ケーキを切り分けるという作業を再開する。
 
「ほら、出来たぞ」
 
 綺麗にカットされたザッハトルテが配られる。
 その昔、余りの美味しさに作り方を盗むために娘を嫁がせようとしたという逸話が残るチョコレートケーキ。
「すごい。夜斗くん、切り分けるの上手です。私はどうしても均一にならなくて…」
「そうそう、なかなか10分の1にカットするのって難しいのよねー…………、って!?ちょっと待ったーーっ!!」
「なんだ。騒々しいぞ、ゆかり」
 大声で夜斗を指差すゆかり。その先には、ハーフハールのザッハトルテ。
「アンタまさか、それ全部一人で食べる気!!」
「それがどうした?」
 
 ザスッ
 
 これは自分の物だと主張するかのようにフォークをケーキに突き立て、いけしゃあしゃあと言い放つ夜斗。
「ワンダフル!これが『食べ盛り』というものか」
「うう…、夜斗くんずるい」
「いや、夜斗の場合は既に食べ盛りと言う域では…、いや…ズルイって…ケーキをハーフホール……うっ」
 いかに美味しいとはいえ、こってりとしたチョコレートケーキを半分も食べるなんて、想像してしまった真田は気持ちが悪くなる。
「もうちょっと寄越しなさいよっ」
「私も…欲しいです……」
 同じ女性でも、随分と言い方が違うものだと明彦はこっそりと感心する。
「ふぅ…、仕方が無いな」
 しぶしぶハーフホールのザッハトルテにナイフをいれる。
「ほれ」
 ポイポイと二人の皿にケーキを追加する。
「少なっ!?」
「あ、ありがとう〜」
 皿には、ハーフホールの10分の1。つまり通常サイズの半分だけ。
「ちょっとぉ〜〜、夜斗〜〜〜〜っ」
 ゆかりがフルフルと震える拳を握りしめ、文句を言おうとした瞬間。
 
「お待たせ」
 
 人懐っこい笑みを浮かべた順平が、香り高い珈琲を運んできた。喫茶店のマスターというよりも、ウェイターが似合いそうな長身の痩躯。女性とは違った繊細さを持つ細い指が、銀のお盆から静かに珈琲を置いていく。
「遅いぞ」
「待ってましたぁ〜」
「おお、待ちかねたぞ」
「ありがとう順平くん」
「ありがとうな。順平」
 
 エスプレッソにアメリケーノ、カプチーノにカフェラテ、キャラメルラテと様々な珈琲が並んでいく。設備が整っているとはいえ、これだけのレパートリーをこなせる順平はすごい。
 給仕をし終えた順平は、夜斗と明彦の真ん中に腰を降ろす。
 
「「「「「いただきます」」」」」
 
 給仕をした順平以外、それぞれが早速カップを手に取り口をつける。
 
 
 
「「「「「ブフッ!?」」」」」
 
 仲良く珈琲を吹き出す一同。
 
「ゴホッ…。ゴホッ…。なっ!?苦っ!エグッ!!」
「ジーザス……。何ということだ……」
「うっ…。ゴホッ…。これ…は…………」
「うえーん。殺人的に不味い〜〜……」
 見目良し、香良し。素晴らしい出来映えの珈琲に、脳は素晴らしく美味しい味を想像していた分だけ衝撃が大きかった。あまりの味のギャップに、脳はしばし混乱を起こす。
 
 ゆらり
 
 沈黙を保っていた夜斗が、まるで幽鬼のごとく立ち上がり、順平に覆いかぶさると思いっきり……、
「これはゆうべの返礼というやつか?ん?あんなに良い思いをさせてやったというのになぁ。伊織」
 華奢な首筋に手を添え、絞め上げながら囁くその姿は扇情的ですらある。
 先程までの動揺が嘘のように消え、呆然と眺めるゆかりと、うっとりとその場を眺める風花。
「ん〜〜〜〜〜っ!!」
 ジタバタともがき、許しを請う順平に夜斗は相変わらず容赦が無い。
「ストップ!ストップ!!そこまでにしておけっ!!」
 明彦が夜斗を必死に引き剥がす。
「ゴホッ。ゴホッ。せ…先輩……っ、た…すかりまし…た」
 涙に濡れる瞳。紅潮する頬がなんともいえない色香をかもし出す。
「(可愛いぞ)…大丈夫か?」
 美鶴が立ち上がり、順平をここぞとばかりに抱き締め、密やかに頭に頬をすり寄せる。
((なっ!!??))
 首を絞め終わった後に、じっくりと抱き締めようと思っていた夜斗は、明彦に羽交い締めされ。
 思わず順平を抱き締めたい明彦は、夜斗が邪魔で美鶴に先手を打たれる。
(おおっ!!ム…胸デケェ〜〜〜)
 健全な男子高校生の反応を示す順平。
 ふと、嫌な予感を察知した明彦が夜斗を更にその場から遠ざける。
 
 スカッ
 
 振り降ろされた、兇悪なまでに形の良い夜斗の左足が空を切り裂く。
「うわ…………」
 夜斗の足が何処を狙ってのものだったのか、気が付いてしまったゆかりは思わず青ざめる。自分には決して解るはずのない痛みだが、そうまでされる順平に合掌する。
「ご…めん、ってーかこれはワザとじゃねぇから。悪ぃ、許してくれ!」
 美鶴から離れ、両の手の平を眼前で合わせ謝る順平。
「うん、この珈琲の衝撃には吃驚したけど…。それより順平くん。今日学校から帰ってきてから、何か上の空って感じでぼうっとしていたんだけど、それの所為なの?」
 それまで騒然としていた場が、風花の言葉で空気が一変する。
「………何?」
「え、学校にいた時はそうじゃなかったじゃない」
「何か遭ったのか?順平」
 
「あ、はは。まっさか〜。え…っとさ、風花考え過ぎ…」
 口々に心配され、動揺する順平は明るく笑い飛ばそうとするが、
 
「何でも無い訳があるか。莫迦者」
 
その試みは失敗に終わる。
「あ……」
 コンと、順平の頭を軽く小突く夜斗。
 にっこりと微笑み、一瞬絡み合う視線。
 
 ガッ
 
「痛ってーーッ!!!!」
 
 器用に順平をソファから蹴り落とすと、いつものように命令する。
「さぁ、仕切り直しだ。仕方が無い、緑茶でいいから煎れて来い」
「わぁったよ。すぐ煎れてくればいいんだろ」
 慌ててキッチンへと駆け出す順平。
 その背中を見送りながら風花が呟く。
 
「………優しいね」
 
「はぁ?あれは優しいって言うか、下僕根性が染み付いちゃってるカンジじゃない?」
 風花が呟いた言葉は決して、順平に掛けたものでは無い。
 一見、暴虐無人に見える夜斗の行為。
 だがそれは、皆に心配され、いたたまれない何ともいえない気持ちになってしまった順平を、この場から救済するためだと見抜いている。
 そんな風花に気付かない振りをする夜斗は、どっかりとソファに腰掛け順平を待つ。ほんの短い時間だが、きっと会話をするまでには心を落ち着けてくることを信じていた。
 本気で順平を大切に想っていると理解している風花は、その光景を微笑ましく見守る。
 
 
「おっまたせ〜。今度はダイジョーブ」
 
 カチャカチャと危なっかしくも、先程とは打って変わって元気良く茶器を運ぶ順平。
「当たり前だ。これがさっきの珈琲の味もある意味天才的だったが、これを飲めないまでに失敗できたらそれこそ神クラスだ」
「わーお、俺ってばすごい?」
「さっきの珈琲……ホントすごかったわ……」
 明るく言葉を掛け合う姿に、年長者二人組みは安堵していた。
 
「うーん、チョコケーキに緑茶。意外と流行ったり〜なんつって」
「流行らない、絶対流行らない……」
「和と洋のコラボレーションだな」
「まぁ、合うんじゃないか?」
「ザッハトルテ〜。さっきあんな騒ぎだったのに無事で良かった〜」
 珈琲を皆で仲良く吹き出すという大惨事の中、奇跡的に無事だったケーキを嬉しそうに眺める風花。
 品の良い、落ち着いた青い絵柄の急須に茶葉を入れる。今日は簡単に、ただお湯を注いだだけだったが、それでも十分に良い香りがふわりと漂う。
 紅茶や珈琲も良い香りだが、緑茶のこれはどこか心を和ませる。
 それも上等な玉露とくれば言うことは無い。
 全員がお茶を口に運びほっと、一息つく。
 
「ん〜〜、美味しーーー」
 ようやく待ち望んだザッハトルテをパクつき、ゆかりは感動する。
「本当。美味しいね〜」
「ああ、意外と緑茶とも合うしな」
 夜斗の皿には決して視線を合わせないように、女性陣はケーキを楽しむ。
「う……わ……」
 夜斗の大食漢を知っているとはいえ、目の前…というか真横で、平然と巨大なケーキを胃に納めていく姿は、順平と明彦にはちょっとつらいものがあった。
 確かにケーキは旨かったが、見ていて腹が一杯になってしまう。
「俺のも食っていいぞ…夜斗」
「お…俺も………」
 二人で夜斗にケーキを差し出す。
「うむ、良い心掛けだ」
 平然とフォークを突き刺しパクつく。
 その姿に戦慄する明彦の脳は、この話題から逃げるため、自然と言葉を紡いだ。
「ああそうだ、それはそうと順平。お前、一体何があったんだ?」
 先程までの余裕の無い真剣そのものな口調から、少しだが、冗談すら交えて話すことも許される程度に軟化していた。
「ん?ああ、なんてーかちょっとだけ感傷的になってただけなんですけどね」
「順平が〜〜〜?」
「失礼な。俺はゆかりっちと違って繊細なんです〜って、痛っ!?」
「とっとと、勿体ぶらずに言え」
「勿体ぶってねぇーし………って、分かった言うよ」
 巨大なザッハトルテの塊を、思いきり口にねじ込もうとする夜斗から逃れる順平は、少しずつ話しはじめた。
 
「自分でも、何でこんなに感傷的になったのか良く解らないんだけど。ちょっと前にさ、街で、上品に着物なんか着ちゃったばーちゃんが困ってたから助けたんだ。そしたらさ、えらく喜んでくれてどうしてもってーんで一緒にお茶まで飲んでさ、ちょっと耳が遠い人だったけどいっぱい話ししてさ。なんか申し訳ないくらい喜んでくれてさ。俺、すっげ嬉しかったんだ。んでさ、今度会えたら、なんかお礼しよっかなーとかちょっと考えてたんだよね。そしたらさ、今日街で会えたんだけどさ…………」
 
 苦笑しながら、少しだけ苦しそうな表情を浮かべる。普段、下らない冗談や嬉々として悪ふざけで明るく振る舞う順平。がさつそうな行動に対して、中身は本当に繊細だった。
 
「絶対人違いなんかじゃなかった。けどさ、今日あのばーちゃんに会ったら、ばーちゃんさ、俺の事すっかり忘れてたんだ。あんなにいっぱい話したのに…さ。なーんか拍子抜けっていうか、なんか…寂しくって。随分と耳も遠かったし、痴呆もあったかもしれないけどさ……」
 
 順平ほど目立つ人物を、すっかり忘れてしまうという事は、本当に痴呆もあったのだろう。
 
「順平くん……」
 
「なんてーの、人から忘れられるってなんか辛くって……。はは。俺としたことが感傷的になりすぎちった〜。俺らしくねっスよね〜」
 
「まったく、お前って奴は……」
 明彦がくしゃくしゃっと、明るく普段通りに振る舞う順平の頭を強く撫でる。
 そういう時は優しく抱き締め、優しい言葉を掛けてやりたいと思う。
 だが順平は、この場で明るく振る舞おうとしているのだ、それが順平なのだ。ならば、順平の意思を尊重し、この場雰囲気を冗談で済ませてやらねばならなかった。それが順平を大切に思う者たちの努めだった。
「そんな悩まし気な素振りを見せて、僕に襲ってもらいたかったのか?」
「ないないないないっ」
「まったく、忘れられたくないだと?さっきは、あんなにも衝撃的な珈琲をどうもありがとう。おかげで、忘れたくても忘れられない青春の1ページが完成だ」
「はははっ、あれは本当に衝撃的だった」
「いや、衝撃的なんてそんな生易しいものなんかじゃなかったですよ…」
「くくっ……。皆で珈琲を吹き出すなんてそうそう出来ない貴重な経験だ」
「そうですね、滅多に経験できるものじゃなかったですもの」
 
 
 
 晴れやかな笑い声がラウンジに溢れた。
 
 
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2006.10.22
あまりにも長くなり過ぎて吃驚です。
誰よりも真直ぐで悩める順平。実はかなり繊細な子だと激しく妄想。

 

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